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歯科医療の隙間と周辺 山形大学名誉教授 吉沢信夫

  • 口腔と全身をどう捉えるか
  • 歯科医療の拡大と他領域とのあつれき
  • チーム医療と条理
  • インプラントと顎(歯槽)堤形成術(その1)
  • インプラントと顎(歯槽)堤形成術(その2)
  • 歯科理工学と医工学
  • モニタリングと看護
  • 障害者歯科からの問題提起
  • 歯科麻酔と救命救急
  • 医療におけるコミュニケーション
  • 臨床研修必修化で拡大した医歯間格差
  • わが国の医療と歯科医師過剰論

嵌植義歯の登場
筆者が初めて「インプラント」を知ったのは,1960年ごろである。それはまず,下顎総義歯の装着を予定した症例に対して,全身麻酔下に粘膜骨膜剥離を行い,露出させた歯槽部の骨面を採型するというものである。これをもとに馬蹄形,網状の金属(Co-Cr-Mo合金)を下部構造物として作製し,1~2週間後の2度目の手術の際に骨面に装着し,粘膜骨膜縫合する「嵌植(かんしょく)義歯」であった(懸田利孝,東京歯科大学新聞)。このあとの上部構造は一般の総義歯とほぼ同様である。

封印されたインプラント
数年後,この患者が久々に来院した。下顎部が広範に感染したのである。しかし装着後7年間の咀嚼機能はきわめて良好であったことから,それまで患者は満足していた。やむなく除去治療の方針が立てられたが,それでも患者は納得して了解した。嵌植という用語は,現在あまり用いられていないし,インプラント自体も進化している。しかし当時は,インプラント体が拒絶反応を惹起しやすいものであるばかりでなく,口腔内環境も細菌コントロールを行いにくいことから,1970年代前半ころまでは,インプラントに対する多くの関係者の評価はおおむね否定的であった。そのため,大学病院におけるインプラントは,残念ながら封印されることになる。

Branemarkとチタン
一方海外では,1952年にスウェーデン・Goteborg大学のBranemark教授が金属チタンのOsseo-integration(骨と金属の直接結合)を偶然発見した。これを機に人工歯根の開発が進み,上部構造と下部構造から成る2piece implantが次第に世界を席巻するようになった。しかし,わが国の臨床医にとってチタンはまだ馴染みがなく,補綴と口腔外科の協同研究も行われることはなかった。1962年からの臨床実習でも,歯槽骨整形以外の補綴前外科を見た記憶がない。1964年に筆者が入局した附属の総合病院の歯科には,著しく顎堤萎縮が進んだ,歯槽部の狭小な難症例が少なくなかった。その当時の為替は1ドルが360円で海外渡航の経験もなく,インターネットもない時代に筆者が入手できたのは,医歯薬出版から出された高橋庄二郎教授のアトラス「歯槽堤形成術」であった。なかでも局所麻酔下の「口腔底形成術」(Trauner)や前歯部の「口腔前庭拡張術」(Wassumund)は,何より有用であった。手術だけではなく総義歯も一貫して対処したためか,補綴の教授もその意義を評価してくれた。

歯槽堤形成術から全下顎堤形成術へ
1974年,筆者はスイス・Zurichで開催された第3回欧州顎顔面口腔外科学会に出張する機会を得た。会長は当時急速に世界的評価を得つつあったObwegeser教授である。同教授の顎外科手術の特徴は基本的に皮膚切開を行わない口内法で,なかでも日本の関係者の関心は,下顎枝矢状分割術(下顎前突症に対する後退術に頻用)に集中していたが,筆者は当面の必要性から,全下顎堤形成術の手順を把握することに腐心した。この手技は,全身麻酔下ながら口裂の小さな日本人においてはかなり難しく,皮膚移植も要するうえ,新たな手術器具も用意しなければならない。帰国後,早速実施の準備にとりかかったが,予算のない教室であったため,まずは手術器具の手づくりから始めた。例えば,下顎用突錐(mandibular awl)には整形外科用のKirschner鋼線を,chin retractorには缶ビール(当時はpull tapなし)用のV字形openerを加工して転用した。これらの臨床研究に形態と機能の分析を加えて,教室員の医学博士号取得につなげることができた。現在の歯科界においては,諸般の苦境をしのぐために,自由診療となるインプラントに活路を求めようとする動きが著しい。しかし,高齢者や有病者などに対しては適応が困難となるばかりか,以後の継続管理が大問題となることが予想される。次回は,その問題提起を試みる予定である。



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